「裁判所に訴えれば何でも審理して解決してくれる!」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、実際そんなことありません。できないことはあります。
いわゆる「司法権の限界」の問題ですが、中には物理的に審理可能なのにもかかわらず裁判所自らが「しません」としていることがあります。これが「統治行為論」とよばれる理論です。
ここではこの統治行為論についてお話します。なぜ審理しないのか、重要判例の紹介や問題点など、統治行為論についてわかりやすく解説します。
統治行為論とは
統治行為論とは、高度な政治性を帯びた国家行為には司法審査は及ばないとする考え方をいいます。「統治行為」とは、極めて政治色の濃い国家行為の意味で、そこに裁判所がかかわって憲法審査はしませんということですね。もともとはフランスの判例理論を引用したものです。
司法権には、様々な理由により及ばない領域があるという「司法権の限界」があるわけですが、この統治行為論はその一場面になります。統治行為論の場合は、「高度な政治性を帯びた国家行為」がその限界点になります。
統治行為論のポイント
統治行為論のポイントは、
- 司法審査は可能だけど回避
- 高度な政治性を帯びた国家行為
の2点。
別に訴訟要件を満たしていないとかそういうことではなく、司法審査自体はできる、つまり、「法律上の争訟」要件は満たしています。でも、あえて「高度な政治性を帯びた国家行為」についての司法判断は回避しますということですね。
例えば、安全保障に関することとか(砂川事件)、衆議院の解散の効力(苫米地事件)などです。
統治行為論の根拠は?
統治行為には司法審査は及ばないとする根拠はどこにあるのでしょうか。民主主義の観点から裁判所が高度な政治性を帯びた国家行為にかかわるべきでないとする見方が大きいです。
といいますのも、裁判所は三権の中でも最も非民主的機関といわれています。最高裁判事は国民投票で直接決められていますのでまったくではありませんが、直接民主的過程を経て裁判官が選ばれるとは言い難いものがあります。
他方、国会を構成する議員は選挙という民主主義の最たる行使で選出されていますし、内閣総理大臣はじめ閣僚の多くはその議員の中から選出されています。さらに、議院内閣制という国会に非常に近い行政スタイルを採用していますので、国会と内閣は運命共同体といっていいでしょう。
非民主的機関の裁判所が、民主的機関である国会・内閣による統治行為について司法審査をするという図式。場合によっては民主主義の否定になるのではないか、これはまずくないか?という理屈ですね。だったら、最初から「私たちは関わりませんので、そちらで解決してください」と宣言する裁判所なのです。
統治行為論の問題点とは
この統治行為論、実は裁判所の言い分にすぎません。つまり、法的な根拠があるわけでもなく、司法審査する側が「こんな場合はうちはやりませんので」といっているだけであって、誰もがそうだよねと言っているわけではないのです。
客観的に見て、多くの人が抱くであろう感想としては、「これ、職務放棄じゃね?」という点。司法権の担い手である裁判所がそれらしい理屈をつけて回避理由を主張するからしょうがないのかなとなりますが、内心は職務放棄の4文字が浮かんでくるでしょう。たしかに、民主主義はきわめて重要だし司法審査による社会混乱への配慮も大事ですけど。
裁判所の言い分だけでなく、統治行為論を認めていくのならば憲法や最低でも法令に規定すべきではあろうかと意見もあります。司法審査回避ならばなおさら民主主義的過程を経て明確にしておくべきだと思いますよね。現状、
- 「高度な政治性を帯びた国家行為」では定義が曖昧
- 法定化し民主的に基準を明確にすべき
- 一律に司法判断回避ではなく個別具体的な検討が必要
等の問題点山積みといっていい状況ですので改善は急ぐべきでしょう。皆さんはどう思うでしょうか。
統治行為論の重要判例
統治行為論で押さえておくべき判例は2つ。それが「砂川事件」と「苫米地事件」です。いずれも昭和30年代の古い判例ですが、若干苫米地事件の方が後に出されたものなのですね。
この2つの判例、同じ統治行為論でもちょっと中身が違って面白いです。それぞれ触れていきたいと思います。
砂川事件
最高裁昭和34年12月16日大法廷判決。
この砂川事件は、日米安保の合憲性(9条)について争点になっているので、「高度な政治性を帯びた国家行為」と言えるかもしれません。当該事件は、立川になる米軍施設にデモ隊が不法侵入し罪に問われたことから始まります。
その過程で、
「主権国として我が国の存立の基礎にきわめて重要な関係を持つ高度の政治性を有する条約の違憲か否かは、内閣・国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点が少なくない」
「一見きわめて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権範囲外のものである」
ご覧のように統治行為論の存在を認めていますが、その統治行為論には限界があることも示しています。すなわち「一見きわめて明白に違憲無効」である場合には統治行為論案件でも司法審査の余地はあるよ?と示しました。限界に限界があるとはちょっと混乱しますが、程度問題だよねということですね。
同時に。統治行為論と同様の司法権の限界のいち場面である自由裁量論も持ち出し、統治校理論と自由裁量論が合わさった事案であるとしています。
参照:砂川事件をわかりやすく解説した -自由裁量行為?統治行為論?
苫米地事件
最高裁昭和35年6月8日大法廷判決。
衆議院解散について、当時の議員が違憲・無効を主張した事件です。
「わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。」
「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。」
衆議院の解散に関する司法審査について、「高度な政治性のある国家行為」とし、「裁判所の審査権の外にあり、」「その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられている」としています。
真正面から統治行為論を認めています。砂川事件のとの対比が興味深いですが、外交問題は統治行為論+自由裁量論による司法権の限界、内政問題は統治行為論という図式なのでしょうか。
苫米地事件わかりやすく解説-衆議院解散の効力に司法審査は及ぶ?
統治行為論の内在的制約論
ちょっと注目してほしいのは1段落目。
司法・立法・行政の三権分立下でも、司法権が及ばない場合はあり、「無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきではない」とありますが、これは司法権にはそもそも及ばない領域があり、それが統治行為だといっています。
「そもそも及ばない」というのは、司法権にはそういう領域があるということを宿命的に有しているという意味。この宿命的制約を内在的制約(ないざいてきせいやく)と言います。
公共の福祉による人権保障と考え方は同じです。権利は100%及ぶものではなく、宿命として一定の制約は受けざるを得ないという理屈です。
まとめ
いかがでしょうか。
お話した通り、統治行為論は裁判所が提示した、いわば訴訟テクニックみたいなもので、だからこそ問題点も少なくありません。ですが、現状、条約や外交問題、内政だと選挙や国会の問題などは統治行為論が適用される可能性があります。
また、ここでは取り上げませんでしたが、自衛隊問題などは高度な国家行為観点でもそうですが、司法審査による影響は計り知れないものがありますので、統治行為論に絡んでくるでしょう(実際に裁判例はありますし)。