衆議院解散

統治行為論とはいわゆる司法権の限界のいち類型ですが、なかなか批判も多い理論です。

でその統治行為論を真正面から採用した重要判例をご紹介しましょう。苫米地事件と言いますが、その事件を解説します。

苫米地事件の論点とは

苫米地事件の論点は、衆議院解散の効力について司法審査は及ぶのか?という点です。とある衆議院解散について、いち議員が「その解散は違法だから無効」と訴えを提起したのですが、この違法かそうでないかの判断を裁判所はするのか?ということですね。

一見問題なく裁判掛けてくれそうですがしなかったんですね。結論はしなかったんですが、その規範に注目していただきたい判例です。

事案

昭和27年の8月28日、当時の第3次吉田茂内閣は、衆議院の解散を行いました。当時の衆議院議員だった苫米地義三は、これを「抜き打ち解散」として違憲・無効を主張。任期満了までの歳費を支払うよう提起しました。

訴えられた国は、この解散は統治行為を主張し審査権は及ばないものと主張します。

第1審・控訴審とも、この解散の合憲性について審査、第1審では違憲・無効とし原告側の主張を認めます。しかし、控訴審では一転、第1審を取り消し原告側の請求を棄却。そして上告審です。

判旨

昭和35年6月8日、苫米地事件最高裁での判決が出ました。下その判旨要約です。

 わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。

 直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。

 この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。

 衆議院の解散は、衆議院議員をしてその意に反して資格を喪失せしめ、国家最高の機関たる国会の主要な一翼をなす衆議院の機能を一時的とは言え閉止するもの~これにつづく総選挙を通じて、新な衆議院、さらに新な内閣成立の機縁を為すものであつて、その国法上の意義は重大であるのみならず、解散は、多くは内閣がその重要な政策、ひいては自己の存続に関して国民の総意を問わんとする場合に行われるものであつてその政治上の意義もまた極めて重大である。

解説

この裁判の約半年前にあった「砂川事件」では、統治行為論を認めつつも自由裁量行為のように扱ったものでしたが、この裁判では、真正面から統治行為論を採用しました。

判旨①:統治行為論を認定

1段目は、我が国の司法権行使において、限界がある、所謂「司法権の限界」が存在すると認めています。

その上で2段目、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為(統治行為)」は、それが法律上の争訟であっても司法審査外のもの」と。司法権の要件は満たす、つまり司法審査は可能だけど、統治行為には司法審査は及ばない、そこは国会や行政という政治部門が判断し、最終的には国民の判断にゆだねるという規範です。

「法律上の争訟」とは司法権の定義みたいなもので、司法権の限界の問題とはこれに当てはまっても司法権が及ばない案件を指すことになります。詳しくは、「法律上の争訟とは」を参照ください。

3段目、統治行為採用の正当性を述べています。裁判所が判断するよりも、「国民の政治判断に委ねられる」べきもとしています。つまり、裁判所ではなく、国民、すなわち、民主主義が判断するものとしています。

まさに統治行為論の規範で認定しました。

判旨②:司法権の限界内在的制約説

3段目、統治行為論、つまり司法権の限界は、「司法権の憲法上の本質に内在する制約」であるものとしています。

この「内在する制約」とは、宿命として持っている制約といった意味です。司法権というものは、もともとそういう制約を持ち合わせているものということ。

これは、「公共の福祉」の一元的内在制約説と同じような意味ですね。

判旨③:衆議院解散が意味するもの

衆議院の解散が意味するものを面面と並べていますが、要は、衆議院の解散は民主主義の行使としてきわめて重大なものと述べているようです。何が言いたいのか読んでみますと、「衆議院の解散の効力については裁判所が出る幕ではない」と遠回しに主張しているのでしょう。

つまり、統治行為論の補充だと思われます。だから、衆議院の解散の効力については司法権は及ばないということですね。

まとめ

以上、苫米地事件について解説させていただきました。衆議院の解散効力については統治行為論より審査しません、としています。そして、司法権の持って生まれた宿命として司法権の限界が存在すると司法権の内在的制約説を唱えました。

この判決は、統治行為論を真正面から採用した初めての裁判です。が、同時に、(今のところですが)最後の裁判でもあります。これ以降、統治行為論を真正面から取り上げている裁判は、2023 年春現在、ありません。

色々批判があるのは事実ですし、第1審・控訴審、上告審の反対意見が少なくなかったことから、当時の裁判所内もそうだったと推察できます。この裁判のあとも、統治行為論に触れている裁判はありましたが、前述の通り、苫米地事件ではなく、砂川事件のように、自由裁量行為に近い流れを踏襲しています。

最後に。完全に蛇足ですが、衆議院解散時の万歳って、ただの願掛けらしいですね。知っている方も多いかもですが。