習得重要度A正直、難易度の高い論点であるが、試験的には重要な箇所である。2つの判例が出てくるが、その違いに注力しておきたい。


ここも立法府、行政府への尊重の一場面なのですが、高度な政治性を帯びた国家行為には司法権は及ばないとする考え方を「統治行為論」といいます。

「高度な政治性を帯びた国家行為」とは、直接国家統治の基本となるような国家行為のことです。例えば、安全保障に関することとか(砂川事件)、衆議院の解散の効力(苫米地事件)などです。

なぜ裁判所は統治行為論を認めるのか

では、なぜ裁判所は高度な政治性を帯びた国家行為について司法判断をしないのか?

ひとつは、そういうことを裁判所は判断すると、結果如何では大きな混乱を招くおそれありとする理由です。これを「自制説」といいます。

統治行為論 内在的制約説の解説

もうひとつ。

苫米地事件では、裁判所は民主主義的機関ではないので、高度な政治性を帯びた国家行為の審査には、司法権は馴染まないとしています。これを「内在的制約説」といいますが、ちょっと解説が必要ですね。

裁判所は、三権の中では最も民主主義から遠い機関といえます。最も民主主義に馴染む機関は、もちろん国会。議員は国民の代表ですから。そして、内閣は、その議員の中から内閣総理大臣を選任するし、閣僚も一定数は議員から選出しなければなりません。さらに、国会と内閣には特有の関係性があります。

最高裁裁判官も内閣から指名を受けるわけですが、それでも、最も民主主義から遠い機関といえるでしょう。

ただこれは、そういう仕組みであるから仕方がありません。つまり、いくら司法判断が物理的には可能であっても、そういう観点から司法判断は馴染まない場合は出てくるだろうというものです。

そういった懸念は、裁判所という成り立ちからすれば、秘めたる限界点であった、内在的な司法権の限界だったとします。その限界点が「高度な政治性を帯びた国家行為」ということになるのですね。

こういう国家の基本的な事項は、あくまで民主主義機関の傾向が強い国会や内閣の判断に委ねるべき、裁判所は介入しない、と。

余談-問題意識として・・・

確かに、統治行為論を採用する根拠は理解できます。個人的には。
「高度な政治性を帯びた国家行為」に、司法権は馴染まないとして、そこは民主主義の決定に委ねるべきというのは、合理的な考えでしょう。

ただ、皆さんはここで思考停止にならずに、問題意識として持っておいてほしいです、
「それでいいの?」という視点。

統治行為論は合理的だとは思いますが、違う見方をすれば、裁判所は「逃げてる」ともいえます。何らかの判断を出すと、確実に混乱する。そんな面倒なことには関わりたくないと考えているかもしれません、わかりませんが。

これって、不当に司法権を縮小させていないか?こんなんで人権救済なんて全うできるのか?
実際、専門家からこういう意見がありますし。

私は、何ともいえません。
ただ、全面的に統治行為論を支持できません。

この統治行為論だけに限りませんが、問題意識は持っておくといいと思います。
試験に関係してくるかは疑問ですが、常にいろんな問題意識は持っておくべきかなと。

思考停止にならずに。視野が広がってくるかもしれません。

判例

統治行為論で抑えておくべき判例は2つ。
すでに登場していますが、それが「砂川事件」と「苫米地事件」です。
いずれも昭和30年代の古い判例ですが、若干苫米地事件の方が後に出されたものなのですね。

判例の詳細は他のページに譲りますが、この2つの判例の違いには注意が必要です。

後に出された「苫米地事件」では、先ほどの内在的制約説を論拠に、がっつりと統治行為論を打ち出していますが、前の「砂川事件」では、統治行為論と自由裁量行為を足して二で割ったような判断をしています。

まだ規範が固まっていなかったんでしょうか・・・

まあ、それはそれとして、この点踏まえて2つの判例を参照頂けたらと思います。


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